東京地方裁判所 平成3年(刑わ)1456号 判決 1991年12月19日
主文
被告人を懲役六か月に処する。
この裁判確定の日から二年間刑の執行を猶予する。
本件公訴事実中、第一の毒物及び劇物取締法違反の点については、被告人は無罪。
理由
(犯罪事実)
被告人は、平成三年七月二〇日午後八時三四分ころ、東京都北区<番地略>先路上において、折から警ら中の警視庁王子警察署勤務の警視庁巡査Aからトルエンを含有するシンナーの所持の疑いがあるものとして職務質問を受けた際、逃げようとして、やにわに右道路端に立っていた同巡査の胸部を両手で突く暴行を加えて同巡査を右道路端から約九〇センチメートル下の地面に転落させ、よって同巡査に加療約二週間を要する左下腿挫傷の傷害を負わせ、もって同巡査の職務の執行を妨害した。
(証拠)<省略>
(法令の適用)<省略>
(心神耗弱の主張について)<省略>
(一部無罪とした理由)
一 毒物及び劇物取締法違反の罪についての本件公訴事実第一は、次のとおりである。
「被告人は、平成三年七月二〇日午後八時二五分ころ、東京都北区堀船三丁目九番先道路上において、興奮、幻覚又は麻酔の作用を有する劇物であって、政令で定めるトルエンを含有するシンナー約二六五ミリリットルをみだりに吸入する目的で所持した。」
二 毒物及び劇物取締法二四条の三は、三条の三の規定に違反した者について、所定の法定刑を定めている。そして、三条の三は、「興奮、幻覚又は麻酔の作用を有する劇物(これらを含有する物を含む。)であって政令で定めるものは、みだりに摂取し、若しくは吸入し、又はこれらの目的で所持してはならない。」と規定し、これを受けて、右政令に当たる毒物及び劇物取締法施行令三二条の二は、「法三条の三に規定する政令で定める物は、トルエン並びに酢酸エチル、トルエン又はメタノールを含有するシンナー(塗料の粘土を減少させるために使用される有機溶剤をいう。)、接着剤、塗料及び閉そく用又はシーリング用の充てん料とする。」と規定している。
そこで、本件に即していえば、吸入目的による所持罪の対象物件は、トルエンを含有するシンナーであり、それであることが同罪の客観的構成要件である。次に、主観的構成要件たる故意として、犯人において、その所持するシンナーがトルエンを含有していることの確定的な認識又はトルエンを含有しているかもしれないという未必的な認識を有していることが、必要であると解される。未必的な認識の場合には、さらにトルエンが含有していてもよいとする認容が必要である。
ところで、故意の成立を認めるには、その事実を認識していることが、当該行為が違法であり、してはならない行為であると認識する契機となりうることが必要であり、また、それで十分であるというべきである。そこで、トルエンを含有するシンナーについていえば、トルエンという劇物の名称を知らなくとも、身体に有害で違法な薬物を含有するシンナーであるとの確定的又は未必的な認識があれば、足りる。
本件被告人は、過去の経験から、トルエンを含有しないシンナーを吸入し、又はその目的で所持しても、犯罪にならないことを知っていたというのであるから、当該シンナーにはトルエンが含有していないと思っていたとすれば、右の認識を欠き、故意がないことになり、吸入目的の所持罪が成立しないことは、明らかである。
三 そこで、右の点についての被告人の故意の有無について、証拠を検討する。
1 被告人は、当公判廷において、本件犯行に至る経過及び本件犯行の状況について、概略、次のように供述している。
(1) 被告人は、少年時代、シンナーを吸って補導されたことがあるが、結婚してからは、吸ったことはなかったものの、離婚後再び吸うようになった。
(2) 本年の平成三年一月か二月ころ、シンナーを吸って警察に補導されたが、トルエンが入っていないということで帰され、トルエンの入っていないシンナーを吸えば、処罰されないことを知っていた。
(3) そこで、それ以来、トルエンの入っていないB社製のシンナーを選んで、吸っていた。トルエンが入っているものを吸うとおかしくなるが、トルエンが入っていないと、酒に酔ったくらいの感じにしかならず、問題を起こすこともないだろうし、酒よりも安いので、それにしていた。本件で取り調べた弁護人提出のシンナー(<押収番号略>)は、いつも吸っているものと同一銘柄のものである。
(4) 本件当日は、足の痛みがひどかったので、それを和らげるために、自転車で店を探し、本件シンナー(<押収番号略>は、被告人が一部使用した残量の一部が入っているもの)には、シンナー乱用防止対策品と書いてあったので、これを買い、本件現場でこれを吸っていた。
そして、本件証拠によれば、被告人がこれまで吸っていたというB社製のシンナーの缶の側面下部には、「トルエン・酢酸エチル・メタノールは配合しておりません。」という表示があり、他方、本件シンナーは、C社製で、シンナー乱用防止対策品という表示が缶中央に表示されていることが認められる。
右(1)ないし(4)の各事実は、他の証拠に符合するか、あるいはこれを否定する証拠はないから、そのとおりであると認められる。
2 そこで、まず、問題となるのは、被告人において、本件シンナーを購入した時点において、それにトルエンが入っていることを確定的又は未必的にも認識していたかどうかの点である。
この点について、被告人の公判供述は、要約すると、次のとおりである。
(1) 本件シンナーには、シンナー乱用防止対策品と書いてあったので、絶対とまではいえないが、多分トルエンは入っていないと自分で勝手に判断して買った。
(2) トルエンが入っていないとは書いてなかったし、その場でトルエンが入っていないかどうか調べようもないから、トルエンが入っている可能性は完全に否定できないが、このことは後に考えたことで、買った当時は、シンナー乱用防止対策品と書いてあったので、いつものトルエンが入っていないものと同じだと思って買った。
(3) 同様に、当初からトルエンが入っていると分かっていたら、八〇パーセントは吸わなかったと思うが、二〇パーセントは吸っていたかも知れない。ただし、それは、後から考えたことで、買った時はそこまで考えていなかった。
これによれば、結局、購入時には、トルエンが入っていないと思っていたことに帰するから、そのとおりであれば、被告人には、この点の確定的又は未必的認識を欠き、故意がないことになる。被告人が従来トルエンが入っていないシンナーがあることを知らなかったのであれば、右弁解はそもそも成り立たない。しかし、被告人が、1、(2)、(3)のとおり、トルエンが入っていないシンナーを吸っても処罰されないということを十分知っていて、酒よりも安くて酒に酔ったような効果があることから、実際にトルエンが含有されていないシンナーであるB社製のものを吸っていたという本件特有の事情を考慮すると前記(1)、(2)の弁解も合理的であって、たやすく否定することができない実質を含んでいるといわざるをえない。(2)の、トルエンが入っている可能性は完全に否定できないが、このことは後に考えたという弁解も十分にありうるところである。
さらに、購入する際に、トルエンが入っているかもしれないということが仮に現に頭の中をかすめたとしても、その可能性も考えたが、結局は、トルエンは入っていないという判断に達したのであれば、その判断に一般的意味で過失があったとしても、それはいわば認識ある過失に過ぎず(もちろん、ここでは、過失犯が問題となる余地はないが、)、故意があるとすることはできないのである。(3)の点も、当初からトルエンが入っていると分かっていたらという仮定によるものであって、結局、トルエンは入っていないと考えた場合には、故意の認定に意味のある事情とはいえない。
3 このように、前記1の認定事実及び前記2の被告人の公判供述によれば、被告人が、本件シンナーを購入した時点で、それにトルエンが入っていることを確定的又は未必的に認識していたとは認められないことになるが、ここで、被告人の捜査段階での供述について当然ながら検討を進めることにする。
(一) 被告人の警察官調書は三通(平成三年七月二一日付け、同月二五日付け、同月二六日付け)である。これらには、トルエンが入っていないとのことで処罰されなかったことがあるという記載はあるが、本件シンナーについてトルエンが含有されていることの認識があったことを直接認める記載はない。シンナーを吸うことは法に触れることは分かっていたといった一般的な供述があるほか、シンナーを吸うのには、人のいないところがよいと考えて本件現場へ行った、法律で禁止されているシンナーを吸っているところを警察官に見つかり、捕まりたくなかったので逃げようと思い、警察官の胸を突いたという事情が供述されている。しかし、被告人が前記のような弁解をしていないこともあって、トルエン含有の認識について焦点を合わせて調書がとられておらず、シンナーを吸うことは法に触れるなど、抽象的に違法性の認識があったことを述べるにとどまっている。
被告人が警察段階で本件のような弁解をしなかった理由や一応違法性の認識を窺わせるような右の事情については、後に検討するが、各警察官調書の記載からは、被告人にトルエン含有の認識があったとまでは認定することができない。
(二) 次に、検察官調書について、検討する。
(1) 検察官調書は二通あるが、このうち、起訴後にとられた平成三年八月一日付けのものには、この点に関する記載はない。平成三年七月三〇日付けの調書において、①「ラッカー薄め液と似た様な揮発性の液を使ってシンナー遊びのまねをしたことがありますが、しかし私が使っていた液にはトルエンは含まれていませんでした」、②「その時も君がいうところのトルエンの入っていないものを買ってきて吸えばよかったのではないか」という検察官の問いに対して、「その時は足の痛みがひどくとにかくこれをまぎらすためにきき目のある物が欲しいという考えしかなく、店で目についてラッカー薄め液を買ってきてしまったのです」という各記載がある。これによれば、取調べ検察官において、トルエンが含まれないシンナーがあることを年頭において、取調べをしていることは十分窺われるが、ここでも直截にトルエンが含有していることを知っていた旨の供述を被告人から録取していない。
(2) この間の事情について、取調べ検察官であるDは、当公判で、次のように証言している。
① トルエンが入っていないと思ったという主張はなかったが、トルエンが入っていないシンナーを吸ったことがあるというので、被告人の故意の有無について確認する必要があると思い、トルエンが含有されていないと思ったなら、警察官から声を掛けられ、質問されても逃げる必要はないではないかと問いただすと、被告人は、「そのとおりです」と答え、トルエンが入っていることが分かっていたのではないか、そうでなければ君の行動は矛盾すると聞くと、被告人は、「分かりました、そのとおりです。」と答えた。
② シンナー乱用防止対策品という表示については、トルエンという言葉を使ったのか、そのような問題となる物質という言い方をしたのか、はっきりしないが、被告人は、「そのようなものを薄めてあるのではないか」と言った。
③ トルエンが入っていたことについて、被告人の認識があったかどうかの点について、例えば、問い答え等の形で録取しなかった理由は、(イ) シンナー乱用防止対策品という表示を見て、即座に缶に在中のシンナーにトルエンが含まれていないと思ったというのは、信用しがたいと思ったこと、(ロ)前記(1)、②の検察官調書の記載で弁解を封じられると考えたからである。
(3) 以上の点について、被告人は、公判廷で、次のように供述している。
① トルエンが入っていないと思ったという主張をしなかったのは、シンナーを吸っただけで捕まったのであれば、言ったかもしれないが、警察官に怪我をさせたので、そんなことは言えなかった。
② シンナー乱用防止対策品と書いてあったから、これまで吸ったトルエンが入っていないものと同じもので、これにはトルエンが入っていないと思って吸ったとは言ったが、検察官がそれは調整してあるというだけという意味で、入っていないという意味ではないのではないかと言われ、「ああそうなんですか」と答えた。それは、トルエンが入っていたという鑑定書を見せられていたから、納得したのである。「そのようなものを薄めてあるのではないか」というのも、検察官が言ったのを、「ああそうなんですか」と答えたのである。
③ 「きき目のある物が欲しい」という点は、酒よりも効き目が強いという趣旨であり、トルエンが入っているものが欲しいという趣旨ではない。
(4) 被告人の右公判供述は、全体として、D証言と対比してみても、実質的に大きく異なるところはなく、むしろ取調べの状況を率直に述べるものとして、ことさらに虚偽の事実を供述しているような形跡は、窺われない。被告人の前記(3)、①、②の弁解の内容は、自然であり、ことに、警察官に怪我をさせたので、強く主張できなかったという点やトルエンが入っていたという鑑定書を見せられていたから、納得したという点は、十分首肯できるものである。少なくともこの点について、D証言でも、これを覆すだけの根拠が示されていない。
また、「そのようなものを薄めてあるのではないか」という発言についても、どちらが言ったのかは、被告人の公判供述とD証言では、対立しているが、これも一種の水掛け論であって、後者が真実であるという決め手はないし、むしろ検察官がそう言ったので被告人が納得したということもおおいにありうることではないかという疑問を払拭できない。そして、被告人がそう言ったとしても、取調べの時点で鑑定結果も知った上で、シンナー乱用防止対策品という表示の意味はそういうことだったのかと納得したというに過ぎないとみることもできる。買った時点において、シンナー乱用防止対策品の表示の意味をそう理解していたかどうかが肝心なのであるから、その点を録取していない以上、意味がない。
取調べ検察官において、被告人が自分にはそう言ったと後からいくら言っても、このような言った言わないの水掛け論を防ぐために、検察官の面前で被告人の供述を録取した書面を作成し、読み聞けと署名指印等により内容の正確性を担保しているのであるから、調書化していない事項についての評価には、一定の限界があろう。
さらに、被告人において、トルエンが入っているとの認識がなければ、当該シンナーにトルエンが入っていても、犯罪とはならないという法的知識があったかどうか極めて疑問であり、法律に素人の被告人がトルエンが入っていないと思っていても、客観的にトルエンが入っていれば、処罰を免れないと考えることも十分ありうるところである。そうであれば、(3)、②の弁解のように、トルエンが入っていたという鑑定書を見せられ、しかも検察官からシンナー乱用防止対策品というのは、トルエンの濃度が薄いものだと説明されれば、そういうものなのかと納得するのは、ある意味では素直な反応であろう。
そこで、検察官としては、この認識の有無について、明確な形で被告人の供述を得るべきであったのである。そうしなかった理由について、D証言では、前記(2)、③、(イ)及び(ロ)の二点をあげている。
まず、(イ)の、シンナー乱用防止対策品という表示を見て、即座に缶に在中のシンナーにトルエンが含まれていないと思ったというのは、信用しがたいと思ったという点については、トルエンが入っていないシンナーを吸っていた被告人が、シンナー乱用防止対策品という表示を見て、これも同じではないかと思ったという弁解が、調書化するまでもなく、信用できないと結論付けられる類のものであるとはいえまい。
ことに、D証人は、本件で初めてトルエンが入っていないシンナーがあることを知ったというのであるから、この点についてさらに明確にしておくべきではなかったかと思われる。すなわち、被告人がトルエンが入っていないシンナーを吸っていたというのだから、それは、どういう銘柄のものであるのか、そのシンナーの缶にはどういう表示がされているのか、それと比べシンナー乱用防止対策品という表示はどういう意味なのか等の客観的な事実を固め、それに基づいて被告人の弁解を正す必要があったと思われる。しかし、本件捜査ではそのような裏付けが取られ、それに関する質問が被告人になされた形跡が認められない。むしろ、被告人が簡単に納得したため、それ以上の詰めを怠ったように思われる。
次に、(ロ)の、前記(2)、②の記載で弁解を封じられると考えたという点は、確かに、右部分を問いを含めて読めば、「きき目のある物」というのは、トルエンが入っているものという趣旨にもとれる。しかし、他面、酒よりも効き目が強いということであり、トルエンが入っているものが欲しいという趣旨ではないという弁解も成り立つのであって、トルエンが入っていたことの認識があったことの押さえとしては、やはり不十分であるといわざるをえない。すなわち、以前買っていたトルエンが入っていない銘柄を探せばよかったが、ともかく足が痛いので、それをまぎらわすために効き目のあるものであればよいと思い、缶を見たらシンナー乱用防止対策品と書いてあったので、トルエンが入っていないものと即断し、酒よりは効き目があり、安いので買ったというのは、弁解の筋として成立する。
繰り返すが、トルエンが入っている可能性が頭をかすめても、結局、入っていないと思ったなら、トルエン含有の認識は認められない。故意が成立するためには、あくまでトルエンが含有されていていることの確定的又は未必的認識が必要である。
結局、被告人の警察官調書及び検察官調書によっては、この認識を認めるに足りる被告人の供述は得られていないということになる。
4 次に、客観的事情の検討に移る。被告人が人目のない所を選んで本件シンナーを吸い、あるいは警察官に見つかって、逃げようとした点について、被告人は、公判廷で、①いくらトルエンが入っていないと分かっていても、人にみられるのは、みっともないから、付近に人のいないところを選んだ、②警察官に見つかって、逃げようとしたのは、もう酔っぱらっていて、訳が分からなくなっていて、なんでそんなことをしたのか不思議に思っていると供述している。
確かに、右の点は、被告人が本件シンナーにトルエンが入っていることを知っており、その吸入等が法律で処罰されることが分かっていたことを一応推測させる客観的な事情であるといえるが、①の弁解もあながち不自然なものとはいえない。トルエンが入っていないシンナーがあることは、取調べ検察官でさえ本件で初めて知った位であるから、シンナーを吸うのに人目を避けようということは、当該シンナーにトルエンが入っていないと思っている者でも考えそうなことであろう。また、被告人が約二時間の間、相当量のシンナー(約一三五ミリリットル)を吸入していたことが窺われるから、被告人の警察官に対してとったとっさの反応を過大視することはできない。まして、前記のように、被告人のトルエン含有の認識についての供述証拠からはこれを認めるに足りない状況で、右の点からのみこの点を認定するには、不十分であるといわざるをえない。
5 最後に、本件シンナーの購入時点では、被告人は、トルエンが入っていないと思っていても、これを吸入するうちに、その効き目からみて、トルエンが入っていることに気付いたのではないかという点について、検討する。
被告人は、これまでトルエンが入っているシンナーを吸った経験もあったものと思われるし、被告人自身、トルエンが入っているものを吸えば、おかしくなることは知っていたというのだから(公判供述)、本件シンナーを吸ううちに、それにトルエンが入っていると分かった可能性は認められる。しかし、被告人が約二時間の間、本件トルエンを吸っていて、具体的にこれはおかしいと思ったかどうか、何時の時点でそう気付いたかなどについて、被告人の供述は全くなく、そのようなことを思いもせず、シンナーに耽溺していたとも考えられるから、やはり被告人が本件所持の時点でトルエンが入っているとの確定的又は未必的認識を持つに至ったと認めるには、足りない。
四 本件証拠によれば、被告人が吸入する目的でトルエンを含有する本件シンナーを所持したという客観的事実は、優に認めることができるが、被告人には当該シンナーにトルエンが含有されているとの確定的又は未必的な認識があったという証明はないから、右公訴事実につき、刑訴法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをする。
(裁判官原田國男)